またまたびびる

くらい安いタクシーに朝から乗り込むあと5時間ばかしのLISBON。
外れなしのkrチョイス第何弾かは知らないが船に乗って対岸にある TEATRO AZUL まで。


その名の通りもうひたすらに青いんです。
まだ日が上り始めたばかりということで少し黄色みがかるもここまでやり切られるとものすごくきれい。
アズレージョの国ということでもちろん素材はタイル。細かなピース1枚1枚がキラキラ。
劇場のマッシヴ感が完全に街にあらわにされてるのは建築家の一種の開き直りだろう、そんなことを思わせるほぼ無窓の巨大な青い面。
その面に圧倒されながら劇場の裏にまわれば今度はそのヴォリュームが奥にたたまれるかのように群がり始める。
なかなか複雑でなかなかかっこよくなかなか気合いのこもってる感じが卒制的。つまり良き意味で若々しいです。
窓の開け方もそのディテールもかっこよす。今度は中もぜひ。


そんなこんなで怒濤のようにLISBONを去りバスで3時間、来ましたシザ大先生のお膝元PORTO。
ふつうの古いレジデンスのような構えの奥にひそんだようなバスターミナルがこれまたなかなか。そして年期の入ったくすみがかった街。
そんな街でまず見るのはやはり、やはり、建築学生なら誰もがやっぱり見たいんじゃないか CASA DA MUSICA 。
言わずもがなOMA、これまた大先生のレム・コールハースです。


うぉぉおおお、かぁぁあっくいぃぃっ!!!
...と大のミーハーのぼくならぱっと見ただけでなってしまうのかと思いきやこれがなかなかそうはいかないおもしろさ。
もちろんめちゃくちゃかっこいい視点は多々あれど、「あれ?もしや...駄...?」な見え方をかなりするのである。
あまりの巨大さからか、正直どことなくぼてっとしていて、平たい表現になってしまうがホント模型みたいな印象だ。
それも、なにかスタディの過程をそのまま都市に置き忘れてしまったかのような、とてもラフな感じ。
ディテールが荒いとか全然そんなことじゃなく、むしろ白い表情はかなりきれい。そうじゃない何かがそう見せている。
そういえばこの感じ、ソウルで同じくレム先生のサムソンミュージアムを見たときに感じた印象に近い。
それは、建築を「こう見ろ!」って言ってるのとは真逆で、手の中で模型をくるくる回しておもしろいところを探すように建築のまわりをぐるぐるさせてくれる、そんな感じ。
それは、おこがましい言い方かもしれないがどこか自分もこの建築のプロセスに入り込んでしまったかのようでもある。
すごい大きさと重さを前に、でも手の中で動かしてるような、そんな模型性。
サムソンに似てると言っておいていきなり論理は破綻するが、それはやはりこの重力を無視したかのような多面体というカタチのなせる業なのか。
いつでもごろごろっと動かせそうでまた、いつでも新たな視点を発見させてくれるような魅力。
そんなことをしてるうちにこのカタチが愛おしくなってきて、もう離れられなくなってしまう。
あのぐわんぐわんな基壇も、モニュメント建築のさむざむしい広場とは対照的にスケートボーダーのたまり場になっていて、その賑やかさがこのヤンキー建築と合っている。
なんたってあのガラガラという音がいい、音が。
スケートボーダーったって、40過ぎのちょいわる白シャツ親父もいるんだから、アングラかラグジュアリーかはやはり場の質の問題だ。


時間の都合により中はいったんおあずけし、シザ先生の MUSEU DE ARTE CONTEMPORANEA DA FUNDACAO DE SERRALVES に。すでに夕暮れ。
いきなりだがこの建築はすごい。軒という建築の部位で完全にコントロールされている。


まずはエントランス。門のような1枚の壁についた軒。
それがぐぐっと下がってすーっと進行方向にまっすぐのび、我々は迎えられる。
脇に広がる大きな庭に対して少しばかり低いその軒。ここで感じるのは昨日感じた抑えの感覚だ。
ここで一気に内に潜む人間のスケール感覚というものが研ぎ澄まされる。
水無瀬の町家・別棟ではまだ分からなかった「空間をおさえる」ということが、ここポルトガルでやっと分かったかもしれないという小さな興奮。
昨日の星田の話につづき、シザと坂本先生の共通性が見え始めてくる。


今度は中へ。にも関わらず、ここにも軒は続いている。
正体を明かしてしまえばそれは天井の下に設けられた照明隠しのためのスラブなのだが、その走り方がハンパない。
展示室と展示室を移動するたびにふと気づくと頭の上を何かが横断しているような、かなり身体的な感覚。
明らかに操作がひとつ多い。が、決して押し付けがましくはない。
自然にある流れに誘われてるようでもあり、またそれがあることで大きな部屋に入ったときの空間の広がり方が鮮烈だ。
その1枚のスラブは自由にコントロールされていて、照明との緻密な関係によりときに小さな空間がすっと上に広がるような感覚もつくり出している。
天井だけでここまでできるのかと、もう唸るしかない。
この軒のような水平なエレメントによる操作は、美術館によくある垂直の壁によるしきりとは全く異なる分節された空間をつくっていて、
その下で眺める展示室というものはどこか大きさを把握できない、外部空間のような空間にも感じられる。
その感覚が、第2のシザ的操作である微妙に平行ではない線でできた部屋によって増幅され、
特に四角くない細い廊下を歩いているときなんかは知らない街を散策しているような気分にさせられてしまうのだ。
床と天井との間に設けられた1枚の板の操作、それがつくる重層する天井のようなもの、
それが、建築というある種閉じられた世界の中で目では捉えられないスケールというものをコントロールしていることにより、
空間の膨張と収縮とでも呼べるような、体のなかに潜む空間を捉える感覚のコントラストをアゲアゲにしてるかのような空間体験をつくり出し、
その感覚が振り切れたとき、それはまるで今いる世界が建築を超えて都市のレベルのサイズにまで広がってしまったんじゃないか、っていうそんな感じ。
これを、軒という自然言語に限りなく近い建築言語を使うことでつくっているというところが素晴らしい。名建築。


さてバック・トゥ・ザ・カーサ・ダ・ムジカ。ついに中を拝見。
まずはエントランス。あの壁からぬっと顔を出す柱が頭の上を自由な感じで走っている。かっこよいす、やはり。
そして目の前には大階段。
さっきのが軒ならこの建築はやはりレム先生ということで動線、つまりは階段に尽きます。
水平なシークエンスの中で斜めの壁に打ち当たれば、それと中のマッスのヴォリュームのあいだにあるスキマにまさに流し込んだかのような階段が現れる。その連続。
広がったり狭まったり、まためまぐるしく向きもかわるそれはまるで川の流れのように
大河あり、激流あり。上り下りする自分はまるで鮭。
そうした階段でつながれるそれぞれの空間は外観で窓として現れている1面大開口の小さな歪んだ部屋で、入った瞬間に、
斜めの壁を見つつ酔うような向きの変化を強いる階段を上ってきた我が身がぽーんと外に投げ出されるような感覚を味わう。
斜めだらけのヴォイドの空間からゴールとして目指してきたはずのその部屋たちが、これまた一切平行な線がないような空間だったとき気づくのは、
この建築の中心の不在と、その産物として生まれた離散的な空間の体験。
またまたサムソンでも感じた感覚が、ここでまたよみがえる。
だらだらと空間が大きくなったり小さくなったりしながら、ひたすらに一点透視をずらされ続けるように繋がっていくこの感じは、
ときに暑苦しいとさえ感じる緊張感や抽象性から解放され、まるで工場のようにざっくりとしていて、非常に爽やかな気分にさせてくれる。
ある種何も感じることなくただただ漂っているような感覚。絶対零度
思えば水無瀬の町家・別棟で味わったのもそんな体験だったかもしれない。すかされ続けて何も思えない感じ。
実際にそこにはものすごいデーハーなテクスチャーがあったりするんだけど、それもどこか許容してしまうようなそんなおおらかさもある。
そんなことも含めてこうしたざっくり感がつくる世界に広がるのは、ここでこの建築は止まってないんじゃないかというような思いであり、
まだまだ更新され続けていくような、ひたすらに動きながら空間が変化し続けていくかような、これまた模型みたいな世界観だったように思う。
そのプロセスの途中にいるような体験が1/1で起きてしまうことが、現代なんじゃないか。


ホールでは弦楽器のコンサートが行われているも見れず。再度リベンジを誓い、今日はここまでにしといてやらぁ。
夜、ウサギを食べて帰宅。


TEATRO AZUL。その背中はさながら宗教建築。

折り畳まれる青。

LISBONでたまたまやってたマラソン。走るバックパッカー、スガヤ。

ホテルの横が、少し気になる。

いってみましょう回転ダ・ムジカ。広場側から来るとまずこんな感じ。ちょっとどうなんでしょう。

左回りです。スペースシップエントランスが見えます。

ガドキュメント視点。くぅーっ、かっこよかー。

ムジカのせなか。なんか愛すべき感じが出ている。なんかギャップ萌える。

突然片流れの建築のように。きゅっと小さくなるダムジカ。

まだまだ片流れ。次ラスト。

めくれあがる大地とともに。うーん、おもしろい。

足下にはスケーターズ。おとなもこどもも、おねーさんも。(*『MOTHER2』より。)

ちょっとだけ転がそうとしてみました。くだらない建築学生ですいません。

さてシザの美術館。まねきのき。しゅしゅ、しゅーって感じ。

そのまますっとのびてエントランスまで。隣のヴォリュームの壁に同じ高さのラインをつくり出す。

そのままそのままこんな抑え方も。これの連続。どこまでが軒かなんて気にしちゃいられない。

入ってすぐの大きな展示室。こんなふうに抑えと抜け。

重層する天井。

光が漏れる。つまりは空間が無限に広がった瞬間。

シザ開口。この開口をつくるだけでものすごい凝縮した瞬間がつくられている。それはホンブロイッヒのラビリンスの、またSCHAULAGERのそれと似ている。

展示自体もおもしろかった。が、アーティストの名前が出てこない...

これはライブラリー。オサレ電球。

これはカフェ。ここでも軒。軒のとめどころがうまい。

まだまだいきます。エントランスダムジカ。しびれる。深層の露出だ。

まずは大階段をのぼっていく。階段が半分なくなりひとつめのカフェ。

もうちょっと上ればホワイエ。かっこいいご老人。

大階段を上から。ざざざざっぱーん。

その先にはホールへと向かう階段。空間が色づき始める。

レッドバー。やらしい。ヤンキーだ。ちょいわるどころかまじわるだ。

なみなみの部屋。もうやらしすぎる。右ではコンサート、左では街のガヤガヤ。

今度は逆サイドの階段。こっちは激流。どどどどどどど。

それを上って振り返る。ざばばばばばばば。

そのさきの踊り場。支流が3つばかし。どこへ行こうかワクワクさん。

右手に出ればこんな感じ。ここでもまた支流が。騙し絵みたいな空間の連続。

逆に突き進んでもまだまだ上れます。天井が高くて気持ちいい。

そんなふうにしていると出会う小部屋たち。ゆがんだ部屋。ゆえにどう写真を撮ったらよいか分からない。

小部屋その2。天井のクッションがふれなくても気持ちいい。外に開けられた開口の反対側にはこのように再びなみなみ。

そのなみなみからホールをのぞく。想像以上に見えてしまい、また想像以上に見られているらしい。

今日はここまで。これだけななめがあれば絶対フェスとかできちゃう。そして絶対楽しいはずだ。あぁこんなのもつくりたかったなぁ卒制。

チケットブース近くのPCブース。何気なくかっこよい。

エントランスの真下にあるカフェ。シアトルはこんな感じだそう。余剰がいい。

コンサート終了。あふれる人々。うまく動線が分けられているふうに思う。


※模型性/抑えの感覚/中心の不在/体験1/1/ぎゅっとパサージュ