生まれた瞬間

に、人間は世界というものの中に投げ込まれる。
「被投性」ということばで、ハイデガーは言う。


そうして投げ込まれたその世界から自らの身を守るために、
人間は屋根を架け、壁を建て、また手を繋ぎ、共同体を築いてきた。
それは人間にしかなし得なかった決死の努力の証であり、
また素晴らしい知恵の結晶であり、
それゆえに今日においても大きな愛に支えられ、また我々人間を支えている。


けれどもその営みが反復され、あるスケールをもつものとなっていく過程の中で、
いつのまにか今度は社会、あるいは制度というものが生まれ、
いつのまにか多くの人間は世界なんて忘れて、
盲目的にその社会というものに今浸っている。
それがとても大きな束縛だったことに気づかないふりをして、安住している。
現代の社会は、そうして確かにそれなりの幸せはありつつも、
しかし何処か不透明で疑いに満たされている。
そんな社会の中で、建てることの目的を問わなければならない。


そうした人間をいかに自由のもとへ再び投げ出すことができるのか。
「投企」ということばで、ハイデガーは投げかける。


これまでに抑え込んできた被投性を見つめ直し、
そして、これまでに培われてきた愛との緊張関係を捉え直すことによって、
人間をその鈍った社会から解放し、様々な瞬間にあふれた新たな世界をつくること、
それが目的のひとつにならないか。
ハイデガーの投げかけた問題に対して、様々な条件の下に繰り返されてきた建築には、
こうして愛をもって取り組む力がある。


アスプルンドによる森の葬祭場、
それとも、パラーディオのマルコンテンタ。
緩やかに傾いた天井を支える柱廊越しに垣間見えるたゆたう大地に、
あるいは、わずか200mmほどに抑えられたソファから見上げる無限の宇宙のように広がる天井に、
ぼくはそこにこの被投性と愛の緊張関係を感じ感動したんだろう。そう今は思ってみる。


暗がりを進むはやての中で、
そういうことを明確にされた若き建築家との衝撃的な一日をふと思い出し。