ボランティアに続いて
本日は北上から仙台までの被災地レポート、視察篇。
大船渡、陸前高田、気仙沼、南三陸町、石巻、東松島の計6都市。
阿部事務所/アーキエイドで奮闘するスガヤの話も聞きながらの12時間。
まず実際に津波の被害にあった沿岸部の場所は、まだどこも痛々しい状態がそのままになっていて、昨日の釜石で感じたように山のように作業が残っている。
陸前高田のように砂浜みたいになってしまったところもあれば、気仙沼や石巻はまだまだ水も引いてない。
どこも道が途中で進入禁止になっていて、本当の海岸線に辿り着けたのは南三陸町くらいだった。
たぶんこれ以上は写真のほうが多く語ってくれると思うのでそちらに任せることにします。
次に避難所について。
ちゃんと見れた避難所は大船渡での新居さんによるリアスホールのみだったが、これはとても機能していたように思う。
多くの人が寝るための大空間もあれば、お風呂もあるし、そして何よりたくさんの本がある。
避難所としてひとつで完結できる性能もあるうえに、心の拠り所となるものがあるということだ。
多くの中学生や高校生が、いつもの夏休みと変わらずと思うくらいに、ひたむきに本に向かって、またはノートに向かっている姿がとても印象的だった。
さんさんと光が降り注ぐパティオでは、おそらく衣類の救援物資の配給が行われていて、
それは別に悲観的な雰囲気はなく、むしろフリーマーケットのような不思議な熱気と魅力が立ち現れている。
そして仮設住宅。
それぞれの街でひとつずつくらいでしか見れなかったけれども、やはり高台にある学校のグラウンドやキャンプ場の大きな敷地に建てられているものが多い。
どこの街でもそうなように、そういう場所っていうのは街にとっては少し辺鄙なところで、今回の震災では車を失った人もたくさんいるだけに確かに不便そうである。
でも、これもまた不思議な感覚だったんだけれどもすこぶる環境が良い。
東北ならではの深い森に囲まれていて、見晴らしはよくて。
そして見に行ったものはどこももともとあった避難所に隣接して建っていて、お互いを補完するような関係をとるようになっているから、
仮設住宅が単体で浮き上がっているような残念な風景になっていることもない。
そしてそういう避難所のなかでつくられたもしくは守られた人々の関係が残されている雰囲気も感じる。
例えば暑かったのもあるだろうけど、結構どこの家もドアを開けっ放しにして、少しくらい生活が垣間見えるのも気にしないで暮らしていたり。
さらに象徴的な一瞬は気仙沼のある仮設住宅にいたときにあって、
小さなワゴンが仮設住宅の建つ駐車場にあの「おさかな天国」をまるで軍歌のように大音量で鳴らして入ってくるではないか。
その音に吸い寄せられるようにまずは外で遊んでいた子どもたちが歩き出し、また仮設住宅の中からぽつりぽつりと財布をもった奥さんがでてくる。
その車の名は「きくちゃんスーパー」。いわゆる移動スーパーである。
先に感じた移動に関する不便さが、大逆転とはいわないけどなにか反転してしまったような痛快さ。
野菜や牛乳、お惣菜といった、いわゆる救援物資では届かないようなものを届けている。
車の前は突然マーケットのような雰囲気になり、ある奥さんは大根をまけてもらって素晴らしい笑顔を振りまいている。
きっとこうしてそれぞれの仮設住宅をまわっていることを想像するととても頼もしい。
たった一日しか見ずにこんなことを言うのは憚るべきと思うけれども、
東北の人たちは本当にたくましくて元気で、人がいるところはどこも哀しい雰囲気はあんまりなかった。
コミュニティごとの避難などといった蓄積された方策もあり人の縁が切れてなくて、小さな共同体をちゃんと感じられたこともその大きな理由だと思う。
でも忘れてはいけないのはそんな人々が生きているそのすぐ隣に最も賑わっていただろうはずなのに全く人の居着けなくなったままの場所が隣接しているということである。
その断絶がただただ残酷なのである。
そのそれぞれの関係は被害の大きさによって少しずつ異なり、
例えば陸前高田は、全て失われてしまった街と、それを眺めなければいけないように建つ仮設住宅という関係としてあって、
そこには都市としての機能の回復の目処が全く見えぬままそこに残って生活することの不安感が立ち上がっている。
また例えば石巻は、手付かずになったままの沿岸部と、津波を免れ機能の大部分が復旧された都市部という関係としてあって、
そこにはこのまま沿岸部がただ捨て去られてしまうんじゃないかというまた別の不安感が立ち上がっている。
気仙沼ではそのそれぞれの境界を人々が日々横断しなければならなくなっているようなことにもなっていたし、
リアス式海岸の地形が特に際立つ南三陸町付近では、全てが失われてしまった入江の小さな集落がその地形に沿って反復し、斜面や岬にぽつぽつと建つ家々は孤立している。
まだ全然整理出来ていないけれども、この断絶を少しでも和らげていくことが第一の復興の一手だと今は思う。
片づけるということもその一手のひとつだろうし、それらの境界という部分は今後の復興にとって重要な要所になろう。
3ヶ月たった今、特に被災してない人は感傷にひたっている暇はもうない。
実際に見て、まずは向き合うことから。そして冷静に考えて、行動する。
最後にこの機会をいただけたこと、本当に感謝します。
まず見えてくるのはリアスホール, 新居千秋/2008。このいかつさは相当頼もしい。
大空間あり、図書館あり、お風呂ありと機能的にも相当頼もしい存在に。これはパティオで物資が配られている様子。とても盛り上がっている。
そこから海のほうへ降りていくとまだまだ片付けられてない場所が見えてくる。
道はとてもきれいになれど、そのあとは止まったままという感じ。
仮設住宅、大船渡にて。総合公園の予定地だった場所に建っている。森に囲まれ環境はよく見えるがアクセスが悪く不便。逆に言えば車さえあればいい。
陸前高田。とにかく平らだったために都市の構造がなくなってしまっている。
駅のそばの建物。自衛隊が救助に入ったあとだけ。
鉄骨の建物はほとんど残ってないか、こうして骨だけになっている。
とにかくまとめられた瓦礫。これがあるだけまだ進んでいるよう。
何もなかったのかなくなってしまったのか。砂浜の砂に地面を覆われているのもあり、陸前高田は街全体がそういう雰囲気になっている。
高台の学校のグラウンドに建つ陸前高田の仮設住宅。街の機能が完全に失われているなかでどうやってやっていくのか。
津波の猛威は海だけでなく川の沿岸部まで。津波がみえなかっただろう分、こちらのほうが痛々しい。
気仙沼。火事があったのもあるのか様子が違う。
津波を受けた住宅。
リアスアーク美術館, 石山修武/1994。残念ながらこちらは被害を受けてしまい一時は避難所として機能したものの今は閉鎖中となっている。
その下のKウェーブという体育館に隣接するように建つ仮設住宅。仮設住宅に足りないものを公共施設が補完し、様相的にもかなり都市的なものに。
駐車場に植えられていた木をよけるように建つ棟。少しの既存の条件だけで仮設住宅は豊かになるという例。
バリアフリー型のものもある。テラスのような使い方も想像させて、これは少しの設えで豊かさがあらわれている例。
と、そこに「さかなさかなさかな〜♪」と爆音を鳴らしながら現れた移動マーケット、「きくちゃんスーパー」。
移動手段がないなら必要なものが移動すればいい。その簡単なしくみで人がどんどん集まってきて、今回の視察のなかでも切実さや楽しさや豊かさを特に感じた瞬間。
南三陸町に入る。
南三陸では地形に沿ってこうした被害状況が反復するがどこもかなり手付かずのまま。
平和の森というキャンプ場につくられた仮設住宅。今回見た中では最大規模、246戸。
もともとの避難所としての機能もまだ残り、煮炊き用のテントはコモンスペースとして健在。
まだインフラが整備されていない仮設住宅も多いよう。これは飲み水用のタンク。
こういうものが増えればいいが、残念ながら建物を建てられる土地は少ない。
石巻。
石巻は被害を受けていないところはほとんど平常状態に戻っているようだったが、沿岸部はまだまだこういった状態。
からくも津波の被害を免れた家も、目の前のこの風景をいつまで見続けて生活しなければならないのだろう。