ちのかたち

TOTOギャラリー・間 「藤村龍至展 ちのかたちーー建築的思考のプロトタイプとその応用」。
 
だいぶ前になりますが、まず講演会の感想から。
すばる保育園、Deep Learning Chairの計算によってできた「なんともいえない」かたちを悦ぶ藤村さんと、その説明の際に出た「他者性」というキーワード。「なんともいえない」かたちになった瞬間が藤村さんにとって「他者性」を獲得した瞬間なんだろう、そういう熱がしみじみと伝わる語り口だった。このキーワードによって、「超線形プロセス」、「連続体」、「計算」の話が互いに結びついたように思う。この「他者性」の獲得が「超線形プロセス」により「連続体」を生成する目的であり、「計算」はそれを飛躍させるツール。じゃあ「他者性」ってなんだというと、それは藤村さんのこれまでのプロジェクトがその魅力をすでに示していた、そういうことを知らしめてくれるプレゼンテーションだった。「計算」は(少なくとも私にとって)初めてその「他者性」を確信めいたものにしていて(故にこれまでの藤村さんの言説なり作品が串刺しにされたようでグッと響いた)、そこがAIなどがより身近なものとして実装された近い未来につながる感じだ。「記号」を経由していることも重要で、それによって「連続体」という概念がより自由な「かたち」を標榜できることを自身の乗り越えによって示している(実際に、すばる保育園もDeep Learning Chairも記号的イメージを乗り越えていて、「保育園」あるいは「Chair」からイメージされる様相ではない)。
特に現在の日本の公共施設の設計/建設においては、大衆が慣れ親しんで信じ込んでしまっているさまざまな「記号」が「かたち」の障壁として現れる。その乗り越えは現在のパブリックな建築の大きなテーマだと感じているが、藤村さんが今日打ち出した設計のあり方が、いま藤村さんが取り組むプロジェクトにおける「かたち」の共有にとってどう展開されるのか、それが楽しみとなった。
 
展覧会は、4階のディエゴ・グラスさんによる各作品の映像が興味深く、それぞれの建築の状態をじっくり見せている。3階で見たそれぞれの模型がどのような質で都市に降り立ち、周辺の環境や都市生活/家の中での生活と絡まっていくか、というその後のプロセスを示すもののように感じられた。3階でみたもののその後=「詳細な設計」+「実際に使い込まれていく様子」、が1つの映像で連続的に取り扱われることも建築へのスタンスを感じられて良い。最近拝見した「つるがしま中央交流センター」でも感じた藤村さんの建築のデザイン性の高さもじっくりと体験できるものとなっていて、メディアでは埋没しがちなところを映像によって時間をかけて体験できたことは個人的にとても喜ばしい。銀ペンの壁やゆらゆらと波打つ透明な欄間など、各作品の端々でエッジが効いている。
4階のスペース自体は、フラジャイルな構造体がそれぞれの映像を柔らかく切り取るのと同様に、同時に佇んでいる人や、ガラスの向こうに見えるブリッジや中庭の展示物も切り取っていて、内外の連続的な風景をつくるもののように感じた。ビルディングKの屋上の路地をつくるボリューム越しに街を望む映像や、OMテラスのスカスカの構造体から街が垣間見える映像にも同様の質を感じて、建築と都市を架橋する藤村さんの次なる展開としての、離散空間による風景的なものへの期待が高まった。
 
当日は、いらっしゃった藤村さんに全体の構成を丁寧に解説頂き、現在進むプロジェクトとの関係性なども伺うことができた。
藤村さん、お忙しい中ありがとうございました。
 
会期は9月30日まで!
 
#ちのかたち #藤村龍至

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インテリア

で完結しないものをどこまでつくることができるのか。
最近ますます建物の外、外との関係を含めた建築の全体性に興味がわき、考えるところ。


リノベーション界隈がとても活発な建築業界だけど、
そのなかでもやはりそうしたことまで実現できているプロジェクトは魅力的だ。
窓の先の風景を新たにどう位置づけるか、どんな構えで街並みの記憶を呼び起こすことができているか、
そうしたことまで提案できている建築の射程は広い。


リノベーションの壁のひとつはそこだと思う。
一方でそうしたきっかけもたくさんあるのがリノベーションのおもしろさだとも思う。
急に興味がわいてきた。

小さな居場所

を見つけて、みんなとても自由に、快適そうに振舞っている。
たった1年だけども異邦者として、東京の人々の特殊なスケール感やリテラシーの成熟度に感心、
空間もそれにとても応えている。
本を読んでいる人も、お茶している人も、働いている人も誇らしげ。
代官山よりさらに窓辺にその振舞いは集められ、
外に出ればそれぞれがパッケージ化されているよう。


これが新しい居場所の在り方なのかと思案したものの、というよりは、
あるリテラシーに特化した限定的な主体のための専門的な空間=これもひとつのコンテンツスペースとして読み解くとすると、
感じた少しの疎外感が腑に落ちた。


東京はコンテンツに満ちあふれている。
各々の自由度を上げていくことが、本当にパブリックを勝ち得るか。
来年はそうした視点で東京と建築に目を向けたいと思います。

たよりない現実、この世界の在りか

展、@資生堂ギャラリー


「ずれ」とか「非日常」という価値は目標とされていない。
この世の体験ではない。
そんな圧倒的な体験をした。


きっとぼくはのこの展示の全てを把握できていない。が、心の底から感動した。


『たよりない現実、この世界の在りか」/資生堂ギャラリー


映画をめぐる美術

―マルセル・ブロータースから始める@momat、とてもよかった。


映画をめぐる美術―マルセル・ブロータースから始める


もちろん全体を通してとても楽しい企画だったのだけれど、
師の書「コモナリティーズ」に登場した田中功起さんの作品『ひとつの詩を五人の詩人が書く(最初の試み)』に見入ってしまった。
5人がぎこちなさと緊張感をもって、しかし大胆に詩をつくっていく様子がとても美しい映像で記録されているのだが、
「5人でひとつの詩をつくる」という<形式>のなかで次々とその<方法>が創出されていくさまがとても開かれていて心地がよい。
その自由な方法の創出が、実は「5人でひとつの詩をつくる」という<形式>の厳密さとシンプルさ
ー5人が詩人である(ある専門性を共有している)こと、その5人が円卓を椅子で取り囲むという配置、そしてそれを取り囲むカメラ用のレール、などー
故にあるようで、その鮮やかさにただただ感動しました。


そのセッション的な制作というあり方が、あわせて展示されている「地震のあとで―東北を思うIII」
大友さんのプロジェクトFUKUSHIMAのセッションの様子やChim↑Pom の作品ともどこかリンクしていて、
「つくること」とは何かと考えさせられた1日でした。
いずれもこの時代においてとても共感するムードをもったものばかりだったので、もう少しじっくりと掘り下げてみようと思います。


展示はいずれも6月1日まで、是非。


田中さんの作品のひとつ。
A Piano Played by Five Pianists at Once (First Attempt) with Japanese subtitle - 日本語字幕版


師の著。こちらもとてもおもしろかった。さっそく北本駅にまで足を運んだくらいです。

アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産

アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産