水都

蘇州、同里を行く。


何かがインテグレートされることでできあがるヨーロッパの窓辺に対し、
柱や軒、縁、欄間、スクリーンといった言語が、あくまでそれぞれ独立したままに、
だが互いに関係を少しずつ持ち合うことで現象のように立ちのぼったのが中国の窓辺であり、
そこでは人間もそうした独立した言語のひとつとなってしまうようで、
身体はその関係の中に溶解し、そうしてできた身体の充満の感覚にぼくらはこの窓の''辺''を見ている。


つまりはここは単に人のための窓辺ではなく、柱にとっても窓辺であり、軒にとっても、縁にとっても窓辺であり、
そうした相対の連続は風にとっても熱にとってもの窓辺をつくりうるはずだ。


留園 にてそんなこんなを想う。