毎年恒例

の大掃除のあと、塚本研としては久しぶりの読書ゼミがノーサク先生指揮のもと開催される。

「『空間の響き/響きの空間』によせて」(仮)と題し、師の新刊に対するレスポンス的ゼミとでもいったところか。


そのゼミを前にして今回チームを組んだチバツカとの議論がなんともおもしろい。

ぼくらは「スポーツのコート」「六本木交差点」「居候」「乗り換え」「治具」を担当し、

そこから「時間」というキーワードももとにいくつかの仮説を議論に向けて組み立てていくという感じで作業を進めることにしたのだが、

メインの作業となったのは「時間」というものがどう捉えらているかということをさまざまな本から拾い上げていくということ。

興味優先でハイデガー多木浩二中村雄二郎、アルド・ロッシ、アンリ・ルフェーブルなどを選び、

ちょくちょくと議論するなかで固まってきた彼らの時間に対する捉えをなんとなく図示してみたときに気づくのは、

ぼくらが今無意識に抱いている線的で連続的で無限で等質な時間概念に対して、

彼らの時間概念がどれも不連続な点の蓄積のような捉え方をしているものであるということである。

例えば多木浩二が「痕跡」と呼び、アンリ・フォションが「出来事」と呼ぶそれらの点が、

まるでひとつひとつの拍子として刻まれているものが彼らの「時間」であるといえる。

そしてルフェーブルはそれら拍子のなかからリズムを見出し、「都市を聴く」。


そのような時間概念のなかで建築物を建てるということはそうしたある拍子をつくることであり、

例えばもしルフェーブルのリズム分析を用いてそれが建たんとする都市のリズムを読み込み、その拍子がそうしたリズムに取り込まれるように、

いやむしろその拍子によって都市のなかのさまざまなものが奏でる輻湊的なリズム(ポリリズム)のなかに心地よいリズム(ユーリズム)が見出されるように建築物を建てることこそが、

治具としての建築のあるべき姿なんじゃないか、

という半ば無理矢理の仮説を立てるところで今回は終わってしまったのだが、何とか満足のいくところまではいったので一安心。

ここからロッシの永続性みたいなことに接続することが今後の課題である。


それにしてもハイデガーがめちゃくちゃアツい。

とりあえず存在に対するこの認識を建築にも獲得させることが、場所にのみ縛られることのない建築の存在の仕方を示す一手になるはずだ。


ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)

ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)

生きられた家―経験と象徴 (岩波現代文庫―学術)

生きられた家―経験と象徴 (岩波現代文庫―学術)

共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)

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都市の建築

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Rhythmanalysis: Space, Time and Everyday Life (Athlone Contemporary European Thinkers)

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