修論も終わり

もういなくなってしまう大御所先輩とサンドとの自然発生的議論を経てある読書ゼミへ移行中。

テーマはまだまだ固まっていないが、まずはスミッソンズとそのチルドレンの言説を追ってみることから始まりそう。

それにあたって核となるだろう「参照」というものに関して何となく問題点がみえてきたので覚え書き。


  参照は再現のみのためにあるのではない。

  参照は建築の知性を経験主義的な問題設定の道具たらしめてしまうものではならない。

  参照はそれによって建築と都市が切り離されてしまうものであってはならない。


まだまだ全然整理されていないが、いかにここに陥らず建築を使っていくことができるのかということが、

参照を方法論としていく者にとって重要そうす。



ところで、最近レクチャーなりシンポジウムなりこういう議論なりを経て、建築の話のなかで

モノそのものをつくる過程の話というものが最も誰にとっても分かりやすく具体的で開かれていてハイコミュニケーションなんじゃないか

ということに極私的に気づく。コンテクストとプロセスのもう少し奥の、かつ空間の一歩手前くらいの話。

ズントーの講演が言語の壁があっても印象的であり、カルーゾの参照の話が共感できるのは、

そのへんをついてるからなんじゃないかと勝手に思ってみたり。


つまりはつくらなければいけないということか。道は長い。