世界の中心

から望む絶景からはじまるDELPHI
日本という島国の小国にはホントの絶景なんてないことをつきつけられてしまった朝9時の風景。
折り重なる、いつまでもつづく、人を寄せつけないかのような荒々しい山並み、その向こうに垣間見える水辺、そしてそれらを横断する濃霧。
絶景を飛び越えて絶''っ''景である、いやマジで。
神を見た気分。


そして向かった ARCHAEOLOGICAL SITE OF DELPHI
寝そべるようにしてさまざまな遺跡が埋もれるその山を一歩一歩登ってゆく。ひとつ、またひとつと、もう原形を留めぬ遺跡を記憶していくような体験。
それはさっき見た広大で神聖な自然の風景に比べれば非常にささやかな記憶としてしかぼくには位置づかない。
が、APOLLON TEMPLEを過ぎ、野外劇場も過ぎてふと振り返った瞬間に、ぼくは愕然としてしまう。
完璧な配置。完璧な関係空間。もちろん自然も含めた関係として、である。
そして、それを体験可能にする鳥の視点。
ACROPOLISもそうだったが、決して単一なグリッドなどにのっとったものではなく、自然の地形に根付き、はるか遠景をも取り込んだ配置は、
''最初の''建築を建てる者としてのただただデライトフルな感性によるものとも、
厳しい自然に対するたくさんの衝突を経た非常にプラグマティカルな判断によるものとも、
はたまた神の視点をほんとうにもった者によるものとも見える。
厳格なオーダーや比例、黄金率といった厳しい制約をもとに追求された建築単体の美しさに匹敵する強度を持った、
神殿や劇場といった限定されたビルディングタイプのなかで追求された配置。
制約がいかなる美を生むか。というか、そもそもなぜ制約が美を生むのか。
いかなる制約をも拾い上げまたそれを語り尽くす前に、まずこれを忘れちゃいけないじゃないか。
それができなければ現代建築は真に古典を超えられないし、これほどまでに残り続ける強度は持ちえない。
制約がかつてないほどにあることは現代建築の特徴には間違いないが、それでは今きみが使っていない黄金比とはなんなんだい?
そう、これは単に解釈の問題に過ぎなくて、本当の問題はいかに多くの制約を美に昇華できたかということなんだよ。
そんなことを強く言い聞かせてくれたことに泣きたいほどになる。
世界の中心で''制約美''とでもいうものを叫びたい心持ち。


あまり覚えてないがフロリアンの発言を覚え書き。
''川は橋があって川になる。岩は寺(神殿)があって岩になる。'' BY ハイデガー
''「オリジナリティー」とは「オリジン」、つまりルーツに戻ることでもあるのだ''。これは藤岡先生も言ってた気がする。


いつまでもいたくなるそんな地をあとにしバスでの移動。
そこでも出会う、大陸というものがつくりだす計りしれないスケールをもった風景にひたすらに心うたれる。
どこまでもつづく人のいない茫漠とした大地。
が、それは決してタブララサなどではなく、強烈に「場所」であることを主張している。
限りなくノーコンテクストだが、それをひっくり返す強烈なコンテクストも持ち合わせてるような、そんな強さ。
ここで建てられるべきはトイレ休憩用のロードサイド型レストランだけなのか。


そして次なる目的地METEORA着。
驚愕の風景の連続のあとにみる、それを超えんばかりのもののけ的風景がお出迎えしてくれる。
運良くフロリアンのテーブルに同席した夕食にて、ひさびさの建築談義に静かな興奮。
「篠原のジェネレーションだ」と勝手な紹介すると、ギリシャ建築の比例美と篠原建築の数学美との関係の話に発展し、これがなかなかおもしろい。
確かに確かである。ちなみにフロリアンはケレツの愛弟子。
その後のバーではティチーノっ子の豊かな感情表現も拝見。
中国人を前に表情たっぷりに中国批判をくりだす姿が素直にうらやましい。


まさに価値観もかえられるほどのスケールアウト、充実の一日。


朝の風景。いかなる言葉も陳腐になってしまうほどの絶景です。必見。

ここがホントの世界の中心。劇場、神殿、ほこら、そして奥に見えるアテナ聖域と山。

ちゃんと勉強もしてます。それにしても欧米人はだれもかれもサングラスがよく似合う。ジェラスィ。

DELPHIの街。こじんまりしてるけど、いい街です。レストランとか絶景だし。


※制約美