50分の1

をはじめてつくる。そして挑んだZWISCHENKRITIK第2幕。
前回アイデアをつくり直せとまで言われただけにかなりおそるおそるな感じは否めない。
そのためにはどうにかシステムを離れ空間の話にもちこまなければという思いをこめた1/50模型。できはまあまあ、写真には耐えたはず。
その模型に予想以上に時間をかけてしまったこともあり、前出の2つの模型も合わせ今回はそれを使ってプロセスを重視しての語りを狙う。
計12時間ほどしかかけてない図面で話すことはほぼ何もないことくらいは分かってる。


まず1つ目の模型(*10/29)、これは
(一度捨てるべきと言われた)コンセプトおよび使うシェルは踏襲し、柱の数を16本から3本にしたところでの構造・システムを純粋に表現したものである。
いわゆる図式。これで新しいシステムの理解を得る。
次に2つ目の模型(*11/5)は、
そのシステムの変化により、どんな空間の可能性をつくり出すことができたのか、ということを表現したものといえそうである。
穴をどう使うかとか、テラスがでてきたり、吹き抜けがでてきたり。
しかし依然としてここまではまだシステム。学部のころならこれでだいたいできた気になって満足していたところか。
そこで今回つくった1/50。
これはその空間を体験させるべくしてつくったものである(というか自分のなかでの確認の意味が大きい)。
スケールや寸法の問題、シークエンスの問題、そしてその空間自体がおもしろいのかどうか。
使ってるシェル自体の魅力、そのシェルをくぐり抜けるらせん階段、シェル越しに見えるもう1枚のシェル、そしてシェルのかたちを使ったオーディトリウムのイメージなどなど。
このスケールでの検証を行ったこともないので探り探り、空間がどこまで飛ぶことができるのかを確認する。
青森県立美術館完成時の青木×西沢対談になぞらえるならこれは明らかな金沢型。
明快な図式を用いて共感を得たうえで、それが空間的にどこまで飛んでるのかを表現しなければならない。


さて、そんなことを原稿にしてプレゼン開始。そしてケレツの一声。
「なんで3本なんだ。1本でもいいんじゃないのか。」


やはりそこでしたかという、つっかえがとれたスッキリした気分となりここからバトル開始。
ケレツのこの案に対する一番の疑問がどこなのか分かったことで話しながら自分のやるべきことも整理されていく。つまりは3本柱であることを固めていけばよいのだ。
まずは構造。
3本である必要を構造エンジニアに問いただすケレツ、スラブが大きくできるんですと説明するワタクシ、水平力に強くなるのではとスザンヌ
これに対してはある階に特別大きなスラブを獲得することでどのようなことが起きるのかを強化しなければならない。宿題。
まぁ何とかこれを受け流しつつ、流れは空間自体の話へ。
そして、ケレツが''マニエリスム''を口にする。
そうです、ぼくマニエリストなんです、とついにこの話題まで持ち込めたことにとりあえず心中ガッツポーズ。
いわゆるお茶の時間における師のいつかの''マニエリスムできないやつなんか建築家じゃねーよ''的な発言に感銘を受けた経験や、また
''習慣的な要素のスタディ''と題された論文、最近の屋根という部位に対して記号とは違う次元での意味を探ろうというスタンスなど、
どちらかといえば師の都市よりではなく建築よりの考え方に傾倒するぼくは、とりあえずその新たなマニエリスムなるもの、
つまり建築の意味の世界を今後どう展開できるのかということをおそらく考えたいのである。
読書ゼミでもお世話になった南後さんの発する''建築的思考''とは何かの問いかけに対し、都市の問題から建築を使って応える立場がいるならば、
建築の問題から建築単体を乗り越えて(つまりはトートロジーに陥らずに)社会に応えることのできる立場もあるんじゃないかというのが今の最大の興味。
そして、そんなふうに建築自体に揺さぶりをかけようとしているのが、篠原一男であり、また西沢大良、そしてケレツ、オルジアティなんじゃないかと勝手に位置づけている。
で、マニエリスム篠原一男も実はまだまだ全然分かってないぼくなのですが、
彼らの、''構造(架構)''という建築のエレメントを(もしくは構造を使って)意味の次元にまで落とすという姿勢が今まさにフレッシュなのではないかと思ったのである。
それが具体的に何なのかというのは今はうまくまとめられませんが...(もう文章わけわかめですみません)


ではさて、ぼくの模型にもどると、そのマニエリスムと指摘される部分は、シェルを積むときに開ける''穴''の部分である。
ケレツは、この穴が、わざわざシェルを傷つけるようなことをしてまでやる必要があるのかと問いただす。
シェルを使うことで獲得しつつある広々とした空間を、柱が''触れずに''貫通してしまうとはなんと不気味だと。
この''構造体に対する裏切り''がマニエリスムと言われる所以である。
だが、ぼくはこう切り返す。
確かにそれだけを見れば構造に対する裏切りとして意味を誘発しつつあるものが、
実は構造の''関係性''のなかでは必要不可欠であることにより、新たな意味を誘発し、より複雑な意味の関係の世界を得られるんではないか。


記号としての屋根、窓、アーチなど、その建築エレメントのもつ表層的な意味をダイレクトに復刻することで建築の意味の世界を回復させ
建築に新たなテンションをつくり出そうとしたのがマニエリスムでありまたポストモダンであるとするならば、
ぼくがここで試みているのは構造という、つまりは建築になくてはならない''深層''の部分の関係を揺らがせることによって、
ポストモダンのように表層的で、なくてもよいものになりかねないものではない、より強くそしてさわやかな建築の意味をつくりだそうというスタンスである。
''機械''とか''象徴空間''などに代表される篠原の意味の世界が他の儚いポストモダンと同時代にあって異常なまでの強度を持つのは
このあたりの強さなんじゃないかと勝手に想像したりもする(再検証せねばならない)。
建築家の好みとしてあたかもデザインされたようなものが、実は建築の深層構造の露出であった瞬間。
ryfさんのコウエンジにおけるメガ梁の露出はそんな意味があるのかもしれない。


そしてもうひとつ重要なことは、この露出の瞬間が、構造を関係的にとらえることによって生じるということである。
この穴の現象は、いわば柱に何枚かのスラブがぶら下がった3つの構造体が、ときおりくっつきながらスーパーインポーズされた(と講評中指摘され気づく)
状態をつくることによってできている。
このように関係的に建築を構築するとき、それぞれの自律性を高めれば高めるほどそこにはゆがみやねじれ、やぶれが生じる訳だが、この穴はまさにそれというわけだ。
これは坂本先生の''建築の解放''の話、もしくはつかもと先生の''キメとナリ''、''縫合''の話に接続し、つまりは建築の意味を生成するための実際の方法論へと接続する。
建築をいったんバラバラにしたうえで再度関係として構築し直すことにより、
例えば屋根を例にあげるならば、軒や棟において、もしくは勾配においてそれぞれが独自に便宜的に諸制約(斜線制限など)に応えうることが可能となり、
できあがった建築は決して完結的ではなく、また無数の制約を軽やかにこなしているという現代的な側面を表現することができるのではなかろうか。


このように建築的思考をダイレクトの示すマニエリスム的表現、それを構造(架構)という建築の深層を支えるものにより、しかもその関係によってつくることで、
何か新しい建築の意味の生成を狙ったというのが、今回のぼくの最も見せたいことと言えそうである。ここに飛距離を求める。
しかし、それが単に穴の写真1枚をつくるためになるというのはまだまだで、
今後はもっと多様な空間の絡み合いのなかで自然に説得力を持つようにしていかなければならない。ケレツも最後のほうはそれを強調していた気がする。


まだまだ知識不足でまとまらないまでも、学部のときにはなかった考え方で、しかもそれをなんとか議論に持ち込めているという点では前回に比べて及第点。
このこうるさい話をどんどんそぎ落として、空間だけでほとんどを語れるようになればよいが。


なにはともあれ何人かの学生がほめてくれたのは素直にうれしい。''I like ~''という表現、ナイスです。
とりあえず来週のVENEZIAでスカルパ先生にでもヒントをもらいたいものである。


見えがくれする天井。サッシはオルジアティのパクリ(かなり好きです)。白いがかわいさなど狙いません。

問題の穴。これだけではまだまだ物足りません。模型も精度をあげなければ。残りはmy workにてアップ予定。

かなりヴォリュームが出てきた模型群。はやくも金欠やがまだまだつくるでぇ。


※深層の露出