大物の安定感

をまざまざと見せつけられたイタリア2日目。
ビバVENEZIA、そうです、待ちに待った LA BIENNALE DI VENEZIA 2008(ヴェネツィアビエンナーレ建築展) です。そして長いです、すません。


11月のMILANOの床のさすがの冷たさに目覚める午前5時。
MILANOの電車事情のおおらかさを実感しながらタクシーで激走、中央駅着は午前7時。
ここからはムツロウの友人skさんも加わり、相変わらず3人衆に少しばかりのイメージチェンジ。
ピンク色のいやらしい空にさすがイタリアと思いつつVENEZIA着は午前10時。


あいにくのどんより雲が覆うVENEZIAの空だが、いつもこんな感じということで気を取り直し、駅の物陰に隠れる使徒らしきものにバカみたいに興奮しつつさっそく船に乗る。
自動車なし船メインというこの街ならではのムービンを、顔凍るほどの冷たい風として存分に浴びる。
道中に見える、明日臨むであろうクラシカルな建築たちの言わずもがなのかっこよさ。
ついにイタリアに来たんだと、ここに来てやっと興奮してくる。


20分ほどでビエンナーレが行われている島に到着、まずはARSENALE(もと造船所倉庫)から。
思ったより賑わいのなく、むしろ住人の生活感にあふれる路地を進むと、そこだけ急に人気の多いチケット売り場にたどり着く。
造船所の倉庫というビルディングタイプには似つかないようなひっそりとした入り口がよい。
今回のテーマは''OUT THERE ARCHITECTURE BEYOND BUILDING(建物を超えた建築)''とのこと。
異常に納得したはずだがいまいち覚えていないイントロの1文目、確か''建築(ARCHITECTURE)は建物(BUILDING)ではない''とかなんとかだったはず。
いやこれおかしい、''全ての建物は建築ではない''だったか。
なんともあやしいが、なんせ買ったパンフがなぜかイタリア語版なので確認不可能。
とにもかくにも展示の意図をすぱっと把握できたところでそれでは鑑賞開始。


来た道戻るという会場構成なのでまずはざっと見ようとガンガン進むとまず目についたのが、そうここでいきなり大物ザハ・ハディッド。
原美術館で見たインスタレーションのオブジェ的スタンス、もしくはシャネルモバイルアートのよくはない噂などからあまり期待してないうちのひとりだったが、
これが意外に、というかかなりよいと感じる。
今回のテーマを建築をもって解釈させしかも見事に具現化しているかのように、一瞬見ただけで思えたからだ。
言うなればイスのようなもの(が、座れない)が、倉庫という巨大なドウ(堂)型の空間のなかで地を這うように、おそらくどの作品よりも伸びやかに''建っている''。
限られた展示空間のなかで''建築''を発揮するということ、いうなれば建物ではないものを、しかしあくまで''建てる''ことでいかに空間を表現できるのか。
もっと平たく言えば家具にもオブジェにもなってしまう(''置かれてしまう'')ことに陥らずに、が決して建物にもなることなく、だが空間をつくるということができるのか。
もっともっとダイレクトに言うならば、建物なるスケールを発揮できないこの空間において、いかにただの物体ならぬもの、つまりは空間、それをつくることができるのか。
そんなことがおそらく今回提示されたテーマだったんじゃないだろうか。
おそらくザハ・ハディッドのこの黄緑の''物体''ならぬれっきとした''建築''は、
巨大なドウに対する地を這う''建ち方''という関係のとり方によって、なにかこの限られた空間のなかで建築に見えるスケール、建築的スケールを獲得し、建築なりえている。
いや、地を這うなかにも浮き沈みするその繊細だが伸びやかなフォルムがつかみとろうとする、
構造あらわしの倉庫の天井と、地を這う黄緑の我が身の大部分とのあいだに広がる今見えんとする空間に建築を感じるのかもしれない。
倉庫という環境のなかで、イスのような床のようなものをつくることでできるその関係を持ってして空間を浮かび上がらせる。
ザハがその環境にどれほど関心を持ってたかなんて知らないが、ぼくにはそう見える時点で是限りなく建築的。
家であることを主張しつつも限りなく家具に近づけようとして屋根を放棄しちゃうというグッチョイが他の鈍重な、あるいは軽率すぎる作品たちの追随を許さない緊張感ある軽やかさ。
4隅に落ちる柱との関係も抜群によい。


続く2番目の大物ゲーリー大先生がこれまたすんばらしく、今度はより原始的に''建てる''という行為を見せつけることで建築を主張する。
いきなり立ちはだかるゲーリー流ぐるんぐるんファサード、そこに広がる生々しいマテリアル。
この時点ですでに充分建築的である。マテリアルだけで建築になり得るという大物ならではの率直な回答。
後ろに回ると、今度は力強すぎるだろうというほど太い部材で組まれた仰々しい櫓。その重量感で今度は明らかに''建っている''。
そしてその櫓をくぐればさっき見たファサードの裏側に広がる、そうこれは棚である。もう建築であることを超えて住める。
生々しいファサード、その裏に広がるいきなり身体感覚に訴えかける棚(らしきもの)、重厚な柱梁(らしきもの)、そしてその柱梁越しに見える倉庫という環境。
ザハが倉庫という環境に対してかたちをもってして関係をつくることで建築に仕上げたとしたならば、
ゲーリーはオーバーすぎるほどだが誰しもが愛着ある建築言語をふんだんに絡み合わせかつ凝縮することで、逆に倉庫を建築が建ちうる環境に仕立ててしまったとでも言える。
「あくまでオレは建てたんや」と言わんばかりの横に添えられた工事現場風展示がシャレにならないほど説得力のある本体のパワフルさ。


既に大物と言っていいだろうUN STUDIOもお得意のメビウスの輪的ヒネリン空間を、
倉庫の中央にあえて道を塞ぐように建てることで大きな倉庫空間の焦点とでも言えるようなトンネルをつくり出していて、
その焦点というイメージがかたちの持っている吸い込まれ掃き出されるような感覚に見事にはまっている。


全体の傾向として、家具的・オブジェ的つまりはアート的になってしまってるものが他の建築インスタレーション展同様多く(その中におもしろいものもあるが)、
他には実験的すぎて、もしくはマイワールド過ぎて現代のこの大量消費的展示空間のなかではあえて見向きはしたくないものや、
きっと濃ゆいんだろうけど濃すぎるゆえ見る集中力が保てないもの(アーバン系に多い)などなど。
そんななかでもやはり大物は魅せる、そう第4の刺客MVRDV。
相変わらずの脱力系ムービーによるスカイカーシティー構想とシムシティ的アーバンデザインゲームとでもいえるようなもの。
前者は本人たちも言及しているが「フィフスエレメント」のような、車が空を飛んでしまった世界を仮定したときのシュミレーション。
彼らのすごさはこのバカバカしいんだけど夢があってなおかつリアリティーも感じてしまうような仮説をチョイスできること、
その仮説を徹底的に想像・実験・分析・検証できること、
そしてその最良の結果を、ゴリゴリ3DCGとは一線を画すも非常にクリティカルなゆるムービーで表現できること、これに尽きる。
流動的でリズミカルなムービー、それをさらりと端的に流されてはこちらも自然に見入ってしまう。


あとはやはりバウワウ。
傾向のなかで最後にもうひとつ挙げておくとすれば、
瞬時とは言わず10秒ほど眺めることで建築的なリテラシーが獲得でき、納得せずにはもしくはふるまわずにはいられないというものがあったといえる。
FURNIVEHICLEと名付けられたおなじみマイクロパブリックスペースシリーズに位置するものの新作であるが、今回の形式は''車''である。
家具らしきものがついていることで単なる車でもなくまたオブジェでもない、がしかしいちおう車らしきものである時点で単なる家具でもない。
そのひねくれのような立ち振る舞いで家具化・オブジェ化との線引きをし、その上で家具らしき車らしきものが置かれた環境をそのらしきものとの関係で建築的に語る。
''屋台''という、家具とも建物とも車とも言えない都市が生み出したハイブリッドな宙づり状態のものを建築的であると位置づけた時点で、
バウワウのこれらのシリーズはすでに建築の土俵なのである、と言えるのかもしれない。
その土俵をうまいこと踏み外さずに、今回はキッチンやリビング、バスルーム、ベッドなどを数珠つなぎに配し、
うまく人々の休憩スポットもしくは擬似的なふるまいを誘発する(料理しているフリなど)写真撮影スポットとなりえていたといえるのではないだろうか。
写真撮影なんていかにも俗っぽいがこれほどまでに人々が同じふるまいを共有してしまう風景こそまさに建築的。
みんなが手をおいてしまう少しばかり高いテーブルの高さはその象徴。
そのふるまいがどこか車を運転してるように見えるのもシャレがきいてる。グッジョブtkzさん。


それ以外にベンチューリら偉大な建築家が描いた地図の数々などまだまだ話は尽きないがそろそろGIARDINI会場のほうへ。
こちらはそれ自体が著名な建築家により建てられた国別の常設パビリオンにおける展示。
すでに暗がりかつクローズまであと3時間、目当てをつけパキパキ見る。


まずはスイス館。これはいちおう見なきゃいかんでしょう。
ETHでもおなじみのD-FAB(デジタルファブリケーションというスタジオ)作の、3次元曲面状に積み重ねられたレンガ。
「ぶつかったら倒れるんじゃねえか」と思わせた時点で、この建築は勝ちなんだろうと思う。実際はびくともしない。
そしてその横のベネズエラ館はスカルパによるもの。
壁から天井までひとつづきになったガラスの窓がらしい。が、この時点ではまだスカルパがうまく理解できず。


なぜならそれはその向かいの建築にここ最近はなかなかなかった衝撃を受けていたから。
そう、 NORDIC PAVILION, BIENNALE BY スヴェレ・フェーン FROM ノルウェー
まず、渋い色合いの建築が並ぶエントランス付近においてそこだけ天気が違うように見えるほどひと際白く明るい、マテリアルの妙。
そして一歩一歩近づくと激震、分厚い屋根スラブかなんかだと思ってたものが格子状に組まれた非常に薄く背の高いプレートであることに気づく。
そしてそのあいだあいだから半透明の波板越しに柔らかく落ちる光。
実のところマテリアルの妙だけではなかったその明るさ。
その水平ですけすけな屋根がつくる大きな軒の先には、マーブル色にくるまれた建築にアクセントを加える茶色いフレームをした目一杯大きないかにも気持ち良さそうな窓が並び、
そして室内であるはずのその先にあろうことか屋根を突き破る3本の木々が見える。
薄暗い天気のなかでは、ほぼ透明な屋根により、外と軒先と室内とがほぼ同質の明るさで、いわゆる中のほうが明るいんじゃないか効果より(*20080924のGの話)、
もう内外関係なくここは少しばかりの明度のグラデーションがかかったひとまとまりの環境である。
その空間の質はいわば木陰に近い。形態的に模倣するいかなる建築よりも実際のそれに近づいている気がする。
木が貫通しているところと同じようにしてところどころ屋根のプレートが欠き取られていて、それがまた木漏れ日のような光を演出。
そうした空間に木の幹だけが見えるってのがこれまたシュールである。
内と外の連続性は単に窓の大きさや数だけでなく、いかにその空間の明るさをコントロールすることができるかということも実感。
そんな空間自体にあまりに陶酔しすぎて中で行われていた彼の回顧展を見るのもままならないほどであった。


そしてネクスト斜め向い、我らが 日本館 、吉阪隆正。気持ち的にはメイン、なんてったってアイドルJUNYA ISHIGAMI。
まずこの日本館の建ち方が構えもくそもないかのように奥まったひっそりとした建ち方で、斜面に顔を埋めてる化け物かのような印象はさすが吉阪先生という感じ。
ピロティをくぐると見える建築を持ち上げている梁はそれぞれちがう構造体を組み合わせたかのようにずれているのが印象的。
そしてぐるりと回されるアプローチの先に、今回の日本の展示である石上純也による温室群が構えている。
これがなんとも分かりにくい。


いや、ここまで見てきても、このプロジェクトは他のどの展示よりも飛び抜けてチャレンジングだ。
イタリアという土地で、これほどまでに壊れてしまいそうな建築をつくってしまうことはきっと衝撃的である。技術的にもピカイチなんだろう。
そして1/1をつくってしまう、外部空間を使ってしまうということも、どこにも増して日本らしくコンセプチュアルである。
が実際に一見、何よりもまず気になってしまったのは、この建築の、それゆえの弱さである。
あいにくの天候と、そして何より設置より2ヶ月間以上も建ってしまい、ガラスは白く汚れ、
同じくガラスの屋根のうえには地面になければ決して美しくは見えない濡れた落ち葉が敷き詰められてしまっていて想像していた透明性は既になく、
土に直接差し込まれたもう透明ではない壁の納まりは、何か土に浸食されてしまってるかのようでむしろ痛々しい。
植物ほどの細さを追求された華奢な白い柱も、季節のせいか、すでに元気をなくしつつある植物の前ではどうしても浮き上がって見える。
ぼくの、今回のビエンナーレのテーマに対する、いかに環境を読み込み、建物なきもので建築を表現できるかという解釈からするならば、
この温室はその環境を外部に求めた時点ですでに建築的であり、1/1をつくった時点ですでに建築的であり、
そしてそれらを、植物に合わせられたという特異なプロポーションとそれらの配置によってつくられる領域という絶妙な関係の構築のしかたによってつなぎとめた時点で、
限りなくどこの展示よりも建物をつくらずして建築できているといってよいと、ぼくは思う。
が、いかんせんギリギリすぎる。
巨大な展示空間という環境のなかで見事に魅せつけた、四角いふうせんのゆらゆらと自身が揺らめくことで獲得した流動的な関係の構築は、
この小さいながらも圧倒的な自然がつくる天候や季節、また時間など、他者のダイナミックな流動性に対するこの華奢すぎる建築のふるまいからは見出せなかった。
きっと素晴らしい瞬間もあるのだろう。が、きっと限りなく刹那的すぎる。Kanagawa Institute of Technology, Kanagawa Japan – Junya Ishigami – Iwan Baan
これはあくまで会期終了目前、悪天候、しかもすでに暗がり始めたなかで見たぼくの短絡的な感想である。
が、そのなかでも強固で、恒久的で、だが流動的な関係を魅せたフェーンの建築がすぐそばにあったのも事実である。落ち葉が透明な波板の屋根にたまっていたとしても、である。
もちろんこれは建物である建築であり比較してはいけないであろうものではあるが、石上さんというのはそこまでの期待をももってしまう建築家にはちがいない。


中は、どこかの誰かが下足にすべきだったんじゃないかと言ってたのには納得のこれまた残念なくらい汚れてしまった床が気になるも、
吉阪さんのつくる強い空間に対する回答としてすばらしい展示、壁面びっしり鉛筆ドローイング。
大好きだというマイケル・リンへの愛も感じる。
線の太さではなく、なにか鉛筆の濃度のようなもので空間を表現しようとするのは東工大で育った人間からして限りなく異質に見えるのがおもしろい。そのへんどうなんすか、タカイさん。
先の温室にも合わせて、石上さんがデザインしたいのはこの配置・大きさを含め植物をドローイングと限りなく近づけることなのか、
それとも単にそういったふうの状態をつくりたいだけなのか、そのへんの焦点をぜひ知りたいものである。
植物は成長も枯れもするし、また鉢植えは動かせてしまう。それをいかんとするのか。


そんな刹那的展示に頭悩ませながらのドイツ館が限りなくばかばかしいほど恒久的でよい。
環境大国なはずなのに電力消費しまくりっぷりを黄色いケーブルの束で皮肉たっぷりに見せつけた人工太陽がエントランスで輝いている。
これが寒空には幸せすぎる暖かさ。しかもそのもとにいるのがなんとも神々しくみんなで写真をパシャパシャ。
その他、アアルトのフィンランド館、リートフェルトのオランダ館ではさすがの建築自体のよさにうなずく。イスラエル館、カナダ館もかっこよい。


残り1時間、あとは駆け足でイタリア館を見て回る。
ここも大物の勝利か、いきなり魅せるヘルツォーク&ド・ムーロン×アイ・ウェイウェイ
椅子の一部がのびて次の椅子に連結され、それが空間を覆っていくというもの。
限りなくインスタレーション的に見えるのだが、その点で立つべきではない点で立つ椅子がつくる緊張感と、どの椅子も決して無駄ではないその連結、
つまりは関係のつくりかたが非常に建築的であると感じる。
線だけで平田さんの桝屋本店のゆるやかに仕切られた空間のイメージを喚起させ、脳内も活性化。
線を表現するだけで空間をイメージさせるのも、建物なきもので建築を表現する方法として有効であることを認識する(*20081023糸空間)。


あとはもう疲労のせいか断片的にしか覚えていないが、WTCの群れの写真や、
錯乱のニューヨークの原画および動画、ザハの初期のころのドローイングなど、ところどころにおもしろさとゴージャス感を感じつつタイムリミット。
出る頃には閉館アナウンス、金獅子賞のポーランド館が残念ながら見れず。
最後にスターリングのブックストアに立ち寄りぼくらのビエンナーレが終了。


夜はさんざん迷いに迷い、「隠れ家」(「中庭」だったかもしれない、全然違う...)という名のレストランに行き着く。
これが正解で、オードブルもイカスミのパスタもデザートのティラミスもどれも出てくるものは絶品。
最初はだれもお客さんがいなかったものの出るころには満員ではないか。実はちなみにイタリアといえばこの人(らしい)、篠利幸ご推薦。


でかい展示空間を与えられているってのもあるんだろうけど、大物は建築ってものを分かってることをビシビシ実感した一日。ちなみにぼくは根っからのミーハーです。


これは使徒ではないか。(*これは井戸ではないか/篠利幸『ヴェネツィア』より)

長くなっちゃったのでもうがんがん載せてしまいます。洗濯物の街ベニス。

VENEZIAで数多く見る、埋没する雨樋らしきもの。このあまりのインパクトで''雨樋倶楽部''なるものも発足。なにか詳細分かる方、教えてください。

使徒に近いがれっきとした建築をつくってきたザハ・ハディッド。座れそうとか囲われそうとかっていうスケールもよい。

ゲーリー。これも家具でも建物でもない絶妙なスケールがある。棚のようで座ることもできそうなジャングルジム的空間。

その横にある工事現場。ファサードモックアップと、それよりライトアップされるヘルメット。プロセス重視。

UN STUDIO。想像以上に居心地がよい。やはり経路の一部になっていることが大きな要因かと。

バウワウ。ときにしずかでありそれゆえオブジェ的にも見える、が。

ときに爆発的にいきいきとしてしまう。人を環境に見立て建築に見せる術はさすが超一流。初見がこのときだったのでかなり感動してしまう。

その他の秀作。深層を表層的に表現した...作者を忘れてしまいました。が、すばらしい。

これもよかった。まず壁にかかれた絵に目がいき、それが物質化して床に伸び、そして3次元に立ち上がり、最後にその影が落ちてまた2次元へと立ち返るという関係性。リテラシー誘発。

ここからジャルディーニ。スイス、揺れる組積造。

NORDIC PAVILION、まずは外より。手前に横断する斜めの梁のようなものは実は自然の摂理でできています。

次に内より。切り取られることで重力を失うプレートたち。その軽さはほぼ電車の吊り広告並み。

そしてそれらの境界。ゆるやかなグラデーション。境界なんて概念突破の瞬間。

JUNYA ISHIGAMI、ファーストインパクト。まずこの視点から見えるのだが、この距離からは限りなく華奢なはずの建築が強すぎるように感じてしまう。

それほどまでにガラスというのは実は断絶的で不透明なマテリアルなんだろう。逆に近づくと今度は映り込んで植物と温室が共振し出す。

一望できる視点は最後に味わう。映り込み透けもする、先の2枚の中間のような。ガラスの現象をここまで引き出せるのはさすがSANAA出。やはりおもしろいかも、というか住めそう。

パビリオン内部。ほぼ何もないことが、吉阪空間への回答としてナイス。あなた方何見とん、と思いきや手前の壁にわずかに見えるドローイング。

ラスト、H&deM×アイ。ときおりだけしなる竹が、まっすぐな竹を虚構的に見せる。さすがのかっこよさ。

ベネチア盛り。ここにも使徒(ただのシャコです、すません)。いやぁ、イタリアはうまい。