スカルパシバリ

真の実行の日。だんだんと上向いていた天気がこの日ついに快晴。
タクシーの運ちゃんにぼられつつもさっそく彼の代表作、 BRION VEGA に到着。


何もない茫漠とした草原なのか畑なのか、想像通りな感じの建ち方がまずはお出迎え。末広がりの重々しいヴォリュームがひらべったく建っている。
そしてそこにはめられた、名刺代わりの重厚な引き戸状の門。相変わらずの神殿機械チック。
それを横目にまずは墓地のほうからアプローチすることに。


一般の方々が使う墓地の向こうに、ひと際大きな墓石のように見えるヴォリューム。
スカルパ特有の階段状のモチーフで快晴のなかでひとつだけ暗い表情を浮かべているような印象を与えてくる。
そして、一歩、また一歩と近づくと、...いきなりかよ、という感じであの、例の窓が早くも目に入ってしまう。
まさに息をのむ。
タイルの縁取りが非常に美しく、どこか和な感じをイメージさせるこの窓は一体何者なのかとうんうん想像を巡らすが、なかなか答えが出ない。
すると突然、お墓参りに来ていたおばあさんがその窓越しに、窓の後ろを流れる水を汲み始めるじゃあないか。
これだ。
いろいろな人がいろいろな解釈をしたであろうこの有名すぎる窓はこの瞬間ぼくにとって、
この、窓と水とその水を汲む老婆のつくる必然的な光景によって生まれる美しさとして認識されてしまう。
本当に素晴らしい瞬間。


そして、そこまでのアプローチはまた非常に濃密。それをつくり出すのはやはり階段。
大きな階段のうえに少しだけ偏心してのせられた小さな階段。
それをよく見ると、その階段の1枚1枚がさらに細かい階段状のカットによって切り離されているのである。
ここで、ぼくはここまでで溜め込んでいた自分のスカルパに対する仮説をついに構築してみることにする。


彼は、建築のエレメントをバラバラにしてしまう。
階段を1枚1枚のレベルの違う板に、扉を建具とそのあいだで動く板に、というように。
階段や扉といった、建築言語のなかで自然言語になっているような習慣的な要素を、
人々がなにも気に留めなくなってしまった凝り固まった建築のエレメントを、視覚的にバラバラにしてみせる。
そして、ときにはその中空に独特のかたちを与えることで、またときには見たこともない金属のつながりを加えてみせることで、
そのバラバラにされた名前のないものたちの新たな関係をつくりだす。
その、今まで見たことがあるようなもの(習慣的な要素)の見たこともない関係は、人がその言語を生み出す瞬間に立ち会っているかのような光景をつくっているようで、
儚く見えてしまうほどギリギリの緊張感を持っているとともに、ぼくらを挑発するかのような野心も兼ね備えていて、
全身の神経が3割増くらいに研ぎすまされていくのがありありと分かるくらいだ。
「建築の役割とは、不可視の人間精神を形象化することだ。」という、『建築家・篠原一男 幾何学的想像力』(多木浩二)の帯にセンセーショナルに書かれた言葉が、
まさに今目の前で起こっているような感覚。
人間は互いの関係で形作られているというエヴァンゲリオンのテーマみたいな抽象的で精神的な世界が、
見えないものをつかまえようとする科学としての側面と、
見えないものをかたちにしようとする芸術としての側面とを同時に持つ建築の、
見えないものをつかまえるかたちをつくり出すという力が最大限に発揮されることによって、
具体的で生々しいかたちを獲得しているってことを言い放っていいんやないか。
そんな仰々しい言い方をしてしまいたくなるほどに、テンションの高い空間が広がっているのは確かである。


その後も悶々と対話したくなるような空間の連続で、
このでかい屋根はなぜ浮いているのか、なんでこの壁は切れてるのかそして乗ってるのか乗っていないのか、この部材は何を支えているのかそれとも何も支えていないのか、
なんてーことをひたすらに考えるのがもう楽しくて仕方がない。
そんなふうにして一通り見終わったあと、なんとか電話がつながった鍵おじさんに礼拝堂を開けてもらい最後に拝見。
いろいろなかたちのいろいろな種類の窓により、外の太陽さんさんな感じが一変、静かで澄んだ空気が流れる。
圧巻はそれらの窓を開ける瞬間で、どれもが違うディテールを持ち、どれもが違う開き方を見せ、
千葉学も真っ青の金で塗られた窓の内側や、重厚に見えつつ実際は重くないL字の扉などにみなきゃっきゃきゃっきゃ。
それだけでおなかいっぱいなのに入ってきた小さな木の扉がなんと巨大な扉として開くしかけになっていて、
その仕組みの豪快さとゆっくりと開いていくにつれて移ろう光の柔らかさとに、ついにもう心も砕ける。
あぁ、まだまだ語り尽くせないし見尽き考え尽きない建築との素晴らしき出会い。
泣く泣くあとにしてTREVISOからVERONAに移動、ネクスト MUSEO CIVICO DI CASTELVECCHIO 。


BRION VEGAとは対照的に、彼の世界観が圧倒するのではなく、彼ともともとの建築の対話を第三者的に見つめるような気分。
新しく手を加えたことを主張するような部分(フローティングストラクチャーやアーチを横切る扉のレールの曲線など)と、
これはもともとなのかどうなのかというくらい限りなくささやかにデザインされた部分とがあることで、
改修部分に目がいくというよりもその改修部分をもとにしてゆるやかに建築全体を堪能することができるような感覚を味わう。
内部での見せ場はやはり開口部のようで、
アーチをまっ二つにして入り口と出口が別々にされたエントランスを始め、
もとの開口とどのように関わるか、またはいかにその開口をフレームによって分割するかといった探求というよりも遊び心のようなものが
本当に建築全体を通して多種多様なやり方で伝わってくる。
そして、もともとの建築において外部であった場所では、
新たなレベルが縦横無尽につくられ、スカルパらしい世界のなかで心地よく体の向きをコントロールされながらの小休止。
重々しくもフワフワとした石の塊を歩いていく感じはどこか川に浮かぶ飛び石を飛んでいるよう。


そして、それら以上に興味深かったのがこれまたスカルパプロデュースの展示。
いったん外へ出て入った部屋の、スカルパのスティールのフレームとそこにおさめられた作品が空間を横断するさまは、
二次元の絵画を展示する手法としてかなり新鮮に見える。裏が見えてもいいんです。
それ以外の展示台もかなりシャープでかっこよい。
また最後の部屋の、青く塗られた天井に走る展示用のレールにしてはデザインされすぎてる黄色のラインも美しす。
改修の素晴らしきモデルに出会えたとともに、建築の幅の広さも感じれる空間体験に感謝。


そんな充実した1日もタイムリミットも間近、最後は BANCA POPOLARE DI VERONA でシメ。
均質な窓によって縦長のファサードが支配されるこの街の建物たちのなかで、
異常に横長のプロポーションをもつ建物をキャンバスにしてスカルパが窓や装飾をまさに絵画のごとく描いている感じ。
この裏で何が起きているのかぜひ検証させてもらいたいものだ。


現代におけるいろいろな建築的思考を提示してくれたビエンナーレに始まったこの旅も、スカルパに建築というもののひとつの軸を感じさせられての終了。
ナーイススケジューリング。


BRION VEGA、まずはお約束の1枚。

この階段で開眼。というかこれはいったいなんなんだ。

切れている壁、もしくはのっている壁、もしくは。

空間がつかまえられる瞬間、もしくは関係をつかみとる瞬間、もしくは。

神がかる天気のなかで神がかる建築は実はそう多くない。

ほんとにドアノブまで踊るんじゃないかってくらいの晴天。

反則階段も許していいんじゃないかってくらいの晴天。

そんな晴天をやわらかくときほぐす窓の数々。

が、内部のための窓になりさがるようなことは決して許さないかのごとき装飾的な外観。建築は巡る。

出口より振り返る。こんな天気のなかでも露々しい、どこか日本的参道。

MUSEO CIVICO DI CASTELVECCHIOをまずはエントランスから。アーチを貫く壁。

静かな空間に走るやわらかな曲線。かっこいいを通り越してエロいです。

反則階段その2。リズムで体に直接階段の新しさを訴えてくる。

またも階段。階段だけを取り出しても話は尽きない。何者、スカルパ。

鳥が空に花を添えたところでラストに。こんなシーンをつくっちゃう太陽ってすてきです。