メルクリ講義その2

が開講。
今日のテーマは『建築の言語について』(''Uber die Sprache der Architektur'')。なんという率直なタイトル。
a+uにも載っているLONDON METでの講演のフルバージョンというところ。
ちょうど先週末に見に行ったメルクリ建築の解説までしてくれたので、その感想も踏まえながらの振り返り。
(ドイツ語ができないのもあり間違いなく聞き間違いなどありますが、留めたいので書きます。
これはメルクリのダイレクトなことばではなく、あくまでぼくの私見たっぷりのメモだということをご了承くださいませ。)


最初のスライドから気合いのパルテノン。接続するところがはなから違う建築家に対して自然と胸が高鳴る。
そのパルテノンの平面と当時の住宅の原形の平面を並べて、まずは建築の領域の問題から始まる。
かたや黒く太い線で表現された壁によって、その内と外というかたちで建築の領域がつくられている住宅に対して、
パルテノンの建築の領域をつくり出しているのは細いシングルラインで描かれた基壇である。
その基壇に対し、「これは階段ではない」と何度もメルクリが強調する。建築の意味を強調するものだとも述べる。
そして、その基壇の上において黒い丸で表現された四面を取り囲む列柱が、神々を呼び込む。そう、パルテノンは神の家。
円という方向性のないかたちがどこからでも入れることを強調し、その太さによってつくられた重々しいファサードは神に対する敬意を暗示している。
その列柱の奥に壁で囲われた2つの空間があり、細長い平面のプロポーションから至極当然のことのように短手から入れるようになっている。
真っ白な基壇はとてもシャープに仕上げられることでジオメトリカルな印象を与え、
同様に白いアーキトレーブは『最後の晩餐』のテーブルクロスのように上に乗る装飾や屋根の意味を強調する。
そのアーキトレーブを支えるアバクスには柔らかな曲線が用いられ、それが落とす影によって重々しいはずの柱は同時に重さを失っているようでもある。


これが、メルクリのパルテノンに対する解釈である。そして続けて重要なキーワード、''Emotionale Inteligenz''。
これが建築を建てるときのもっとも重要なことだとメルクリは説く。
そのために建築を観察し、建築の言語を、そして建築の文法を自分自身のなかに獲得せよ、と。
パルテノンは、その姿勢を示すメルクリにとって重要な建築なのである。


続いては、トスカーニアのサンピエトロ聖堂とサンタマリアマジョーレ聖堂。
パルテノンの平面における柱と壁が入れ替わり、いわゆるぼくらが思い描く教会の平面になっている。
そしてこの転倒が、この空間がもう神のための空間ではないことを示している。
リニアな平面において現れる段差は内部に設けられた基壇であり、その段差は都市における階層的な社会を反映したものになっていて、
その基壇の奥に現れる半円がさらにその祈りのための空間の重要性を強調する。
それぞれのエレメントがそれぞれの意味を持っていたパルテノンに対し、この教会においてはそれぞれのエレメントの関係によって新たな意味がつくられており、
それぞれを構成するかたちは円や正方形、また三角といったようにとてもシンプルで幾何学的なものばかりである。
同じくシンプルな幾何学でつくられたKOUZELはシンメトリカルな平面においてアシンメトリーを表現する重要な要素となっている。


そしてモスク、ハギアソフィア
パルテノンとローマの教会のリニアな平面に対するモスクの全方向性をもった平面。
これが意味するのはより開かれた空間のありかただ。
それぞれのエレメントが特別な意味をもつのではなく、どこも同じであることによって生まれる意味がそこにある。


この、3つの重要な建築類型とメルクリが位置づけるもののあとに、パルマの都市形態の話を挟んでコルビュジェのロンシャンが来る。
神の家でもなく、階層的な社会も特定の宗教も背景としない、あらゆる場所から来るあらゆる人々のための礼拝堂というプログラム。
その条件に対してコルビュジェはまず、リニアでも全方向でもない、ほぼ円のような、3つの柔らかな矩形を用意することで、
異なる文化を背景とする異なる人々のための異なる空間を緩やかにつくりだす。
その柔らかさは、吊るされたような屋根や斜めにされた床といったトポグラフィックなエレメントによって建築の建ち方にも貫かれていて、
その屋根と、先の小さな矩形をつくる壁とは違うもう一枚の大きな壁が、その厚さによってこの建築のなかにもうひとつのスペシフィックな部分をつくっている。
この建築の形態(Gestalt)はまるで貝のようであり、また衣服のようであり、また光をためこんで使う昔のカメラのようでもあるが、
しかし決して外側しかないスカルプチャーなのではなく、内外をもったプラスティカル(Plastisch)なものであり、
その可塑性こそがこの建築を表情豊かなものにしているのである。


ここまでが前半。
この後、コルブの学生寮を例とした柱を示す3つの言語(Saule、Pfeiler、Stutze)のもつ意味の違い・それのつくり出すふるまいの違いの話や、
スイスのヴァナキュラーな建築を通したヴォリュームというもののあり方の話、またパラーディオを例としたアダプションに関する話が盛り込まれた中間部を挟み、
自作について語り始める。
これまでのリファレンスたちがメルクリの建築にどのような影響を与えたかということを示す後半。


1つ目は ZWEI HAUSER,TRUBBACH/AZMOOS (写真(1)(2)(3)(4))。
最初にお決まりのメルクリスケッチによるファサードのスライドを5枚ほど見せ、この建築がこのメインファサードを出発点としてつくられたことを示す。
このメインファサードに描かれた大きなロッジアから、
それに面する大きなリビングと、その残余として両脇にできた等価な矩形の空間にライブラリ、そしてキッチンがまず納められる。
そして2Fでは、4つのフランス窓と4つの部屋の関係がスタディされ、
部屋に対してシンメトリーに窓を入れつつかつ両端の窓が少しだけ外側に寄るように、というルールのもと、
真ん中2つの部屋よりも少し細長いプロポーションが両端の部屋に割り当てられる。
これはより開かれたファサードをつくるための考慮である(窓が真ん中に寄った姿を思い描いていただきたい)。
メインファサードで決まるのはここまで、水回りや階段といったものはケの場所のような細長いプロポーションをした廊下にリニアに並べられ、
それを反映して、シンメトリーなメインファサードとは対照的にサイドのファサードはとても自由な表情をしている。
この建築の重要な要素である大胆すぎる柱はメルクリの、近代ではなく古典に接続したいのだというスタンスの表明の表現である。
なぜ近代ではなく古典なのか。
それはメルクリにとって近代は知識に過ぎないが、古典は知恵として受け入れられるものであるからだ。


2つ目は EINFAMILIENHAUS,SARGANS (写真(5)(6))。親族のための家である。
この建築のために描かれたファサードのスケッチは実際の建築の印象とはかなり異なる。
それは、実際の建築においてコンクリートで仕上げられた部分しか表現されていないからであり、
また日本でいう旗竿敷地のような奥まった敷地に建つことで、そのファサードと正対する視点を実際得ることはできないからである。
が、メルクリは変わらずファサードのスケッチからほぼ建築を説明する。
このファサードを強く支配しているのはヨゼフソンの2つのレリーフである。
そのレリーフを古典建築の柱頭に見られる装飾のように扱うがごとく柱の太さが調整され、それが2段に積まれることで強くシンメトリーなファサードがつくられている。
が、基壇の部分にはそのシンメトリーのもつ意味を相対化させるように小さな窓がわざと中心から少しずれるように配されている。
そうしてできたファサードに対し、1層目では不特定の機能を請け負う大きく高い部屋がロッジアに面してつくられており、
2層目ではファサードのつくる分節を裏切るように3つの部屋が用意されている。
キッチンやトイレといった水回りはまたも細長く大きな階段室の一部となるように納められている。


3つ目は MEHRFAMILIENHAUS,SARGANS (写真(7)(8)(9)(10))。1986年作の集合住宅。
この建築の説明はプランから始まる。
見えるのはメインの通りに対して並べられた異様な数の黒い四角形。ロッジアをつくるにしては逞しすぎる列柱である。
この列柱は、構造的要請に迫られたものではもちろんなく、都市のコンテクストに対するメルクリのメッセージを反映している。
都市に対する緩衝としてのヴォリュームを示すものとして、この列柱は配されている。
(※「本来は、個体の塊を指してマスと言い、気体や液体の塊を指してヴォリュームと言う。」らしい。( 青木淳『原っぱと遊園地2』より))
ストラクチャーとしてのイメージを排除するように、ファサードにおいてこの列柱はずれにずれており、そして異様な密度と太さは逆説的にそのことを強調する。
その重々しいファサードが2層分はあろうかという大きな無窓の基壇によって載せられることで、この建築の都市に対する関係のとり方というものが一層明白なかたちで表現されている。


その後もさらにEINFAMILIENHAUS,WINTERTHUR、WETTBEWERB KULTUR UND KONGRESSZENTRUM,ASCONA、そしてZURICHでとったらしい最新のコンペ案について語る。
特にあとの2つのような大きなプロジェクトにおいては、ファサードに対していかに中の空間が距離をとるかということや、異なるオーダーの衝突といったようなテーマが見え隠れしていて、
それを調整するものとしてのセクションという新たな次元がメルクリの説明のなかに出てきているのが興味深い。


と長くなってしまいましたがそれもそのはずの休憩挟んで計4時間を超える熱烈講義。
感想等はまたのちのちと考え溜めることにして、
にしてもその後のトニー・フレットンの講義も筒抜けになってしまうくらいの得難き膨大な情報量を手に入れた心持ちではあります。


さあ問題は、ぼくの文法はなんなんだ、ということである。


(1)ZWEI HAUSER,TRUBBACH/AZMOOS。酔っぱらいみたいな赤。

(2)メルクリ建築は旗竿が多い。つまりファサードは都市に対するものとしてではなく、あくまで建築のグラビティをつくるものとして扱われているのではないか、という話に啓さんとなる。
ルドルフのときに言ってたローカリティというのは実はグラビティという意味なのかもしれないす。

(3)調整として現れるメルクリの2番目のファサード。緻密に内部と対応しているからこそのこの絶妙な加減。

(4)小さいほうは妻入です。こちらはヨゼフソンのレリーフアシンメトリーをつくっている。

(5)EINFAMILIENHAUS,SARGANS。この赤色が建売住宅地のような街に非常に溶け込んでいる。

(6)このようにあいかわらずファサードが見えません。

(7)MEHRFAMILIENHAUS,SARGANS。いやぁ、堂々。バラバラだけどシンメトリー。

(8)神殿です。完全に伺い知れないロッジアが生まれている。

(9)集住でも変わらずファサードの階層性はつくられている。漆喰に塗り込めるのは石として扱っているという表現のひとつとのこと。

(10)共用部、あぶれ出る階段。

TRUBBACH/AZMOOSにてもうふたつ。異常にでかいテラスのヴォリュームがこの建築の小ささを揺るがす。

側面に開けられた超絶プロポーションのエントランス。そのエントランスの微妙な勝ちや、またコンクリートのズレ、ピーコンの位置など全てがオーナメンティックに扱われている。

これはどうなのかね、となったもうひとつ。窓がどこかおざなりです。ここまで他の精度が高いとディテールの問題というのにも気づいてくる。

EINFAMILIENHAUS,GRABS。予想よりつぶれている印象のプロポーション。見たことないけどどこかアニ・ハウスを見るような気分。

かなり垂れまくっている庇の下にも潜る。想像より高す。

テラスが浮いてるとかそういうこと以上に浮遊感たっぷりの開放感。腰壁がやばす。

リヒテンシュタインという小国にも足をのばす。ケレツす。