パラッツォにて

エスキス開始の今日3日目。
パラーディオ博物館などが置かれパラーディオ研究のホンマルとなっているPALAZZO BARBARAN DA PORTOの1室にて、
2グループずつ今日明日に分けてメルクリのチェックを受ける。


いるのがパラーディオの実作の中にということで、エスキスの途中でもお構いなしに学生を中庭などに連れ出してレクチャーを始めるメルクリ。
集住を設計するうえで彼にとって重要なのが『1に階段、2にファサード』らしく、
それは階段が都市と建築をつなぐものであり、都市に対する玄関となるからであると思っているのであるが、
このパラッツォのスペーシャスでジェネラスな階段室はそれを納得させるに足る空間である。
平面における少しばかりの斜めもいい。
彼は「階段室はこのように空間的でなければならない」と言い、「2方向以上の向きをもった階段をつくりなさい」と諭す。
そうしたメルクリの言葉をパラーディオの実作で検証しながら自らの図面に落とし込んでいくというそんな貴重な時間が4時間ばかり。


その後車で近郊にまで足をのばしヴィッラを拝見。
1発目の VILLA FOSCARI ''LA MALCONTENTA'' /1560からいきなり度肝を抜かれる。
何といっても脇を流れるブレンタ河に面したファサードのロッジアと交差ヴォールトの大広間が素晴らしい。


まずロッジアは河の蛇行がつくったかのような半円状の小さな庭の中心に置かれていて、そこに両脇からL字の階段がのびる。
その階段の手すりは450年ものあいだに取り去られてしまっていて、その純粋な形態により緊張感と高揚感を引き起こさせてくる。
緩やかな勾配がつくるリズムもこの建築の大きさを受け止める心得を準備するのにとてもよい。
そしてそうした脇からのアプローチは、ロッジア内をファサードに並行して体験するような身体の向きをつくり出すのであるが、
それは高く奥行きのあるプロポーションを右手(左手)には壁、左手(右手)には列柱を感じながら体験することになり、
その体験というのがスカスカなんだけどいかにも何かの厚みに入り込んでしまったような、
まさに青木さんが『原っぱと遊園地2』で述べていたヴォリュームの話みたいな感覚を与えるもので、
その感覚というのはつまりは空間の幅というものをファサードの厚みとして認識できているというような感覚なんだけれども、
これが非常にロッジアという言語のもつ魅力をアプローチのつくり方によって顕在化しているようで感動してしまう。
ファサードに対して垂直に向かっていくようなアプローチではこの体験はまず得られないであろう。
ロッジアの中は、どこかの海の家にでも置かれているようなチープな家具には目をつぶるとして、
列柱の柱礎を受けながら3辺をぐるりと囲むようにして配された腰壁化された基壇のようなものが350~450mmくらいの絶妙な高さであり、
ロッジアという言語のもつ気持ちよさと相まって誰しもがそこに腰掛けてしまうというふるまいを演出する。
この中に入り込むまではそんなエレメントがあるなんて微塵も思わせないところがかっこつけてかっこよすぎる。


そしてそのロッジアから扉を1枚開ければそこはすぐ大広間、想像を超える大きな空間が突然乱暴に広がる。
十字平面と交差ヴォールトの組み合わせが素晴らしく、四方から引き込まれた水平性がいったん中心に集まり天井へとのびる垂直性へとうつろう。
そうした方向性がこの広間の圧倒的な大きさを何とか空間として成立させているような、そんな見えない座標による緊張感が走っているという感覚である。
しかしまだまだそこは住むためには大きい、大きすぎる。そこで次に効いてくるのが家具である。
特に十字平面の入隅に配されたL字ソファの低さが、空間の非日常的な大きさ、特に高さをあえて最大限存分に体験させるかのようにものすごく低い。
その低さが、水無瀬の町家で体験したソファの低さがつくる心地よさを思い起こさせ、急にこの空間のスケールが人間性を帯びてくる。
かつての持ち主は十字平面の末端の少しスケールダウンした空間で、こうした低い家具に座って天井の美しい絵を眺めながら過ごしたのだろう。
最も奥の、メインファサードとなる面の角にも別の造り付け家具が置かれ、
今度は大きな窓を小さな書斎のように設えていて、ここでは窓の外に広がる大きな庭が眺めの対象となる。


その他パラーディオの平面がもつ回遊性、内部の階段のタイトさ、内部をグラビティを表明するかのようなメインファサードのつくられ方など、
いつまでもネタが尽きない完成度に完敗。
これほど寸法に関して発見の多い建築だったにも関わらずメジャーを持ってこなかった自分を悔やむ。


その後、 VILLA BADOER /1563。
湾曲した付属屋が特徴となっていて、今回はメインファサードにロッジアが現れる。
3方開けたVILLA FOSCARIのロッジアに比べこちらは1方のみしか開けておらず、内部空間の一部のような性格が強い。
ロッジアのイメージとして、てっきりこんなふうに全体形とインテグレートしたものが建築として優れているなんて勝手な偏見を持っていたが、
それは全くの誤りであったことをこの比較で悟る。むしろ下屋型ロッジアのほうが実は魅力的なのではないか。
広間は奥行きのある長方形平面なのだが、さっきのVILLA FOSCARIの広間を経験してからではどうも息苦しい。
さらにここでは主階の上の階も体験し、どこも2100mmくらいの天高のパラーディオの回遊性プランによってやけに気持ちの悪い身体感覚にされる。


日が落ちたにもかかわらずそのあとも VILLA PISANI /1555、 VILLA POIANA /1556。
見つけてはそそくさと車を先に降りてダッシュするメルクリの姿がなんとも若い。
VILLA POIANAでは犬に追っかけられて戻ってくるとかマジでお茶目である。
どちらも外観だけであったが、VILLA PISANIではファサードの階層性とロッジアや装飾といったエレメントの関係(メインファサードは通りに面したほう)を、
VILLA POIANAでは抽象性の問題、破風の返し(?、底辺の水平な要素)の度合いとファサード全体の印象の話、セルリアーナがつくる奥行きなどについて学ぶ。
移動中の車の中はカラオケ状態だったりというのも加え、かなり濃密な1日。


さて市街に戻ってきたのはもう夜の9時過ぎ。
朝のエスキスが不十分だったことを受け昼から「エスキスしてくれないか」とメルクリに申し出ていたのだが、
「じゃあ夕食を食べながらやろう」ということになりアシスタントとピエロも含めてディナーエスキス開始。
ぼくのプランは中庭側のかたちがまだ決まっていなかったのだが、そこにどんどん構造(STRUKTUR)が与えられてゆく。
タイポロジーとして得られた全体形に対してどのような構造というものを与え、そして伝えることができるかということの重要性を説かれる。
こうしてある程度プロジェクトについて議論したあとは日本の話題を中心に歓談。
実際に行ったことで日本が相当気に入ったらしく次から次へと話題が出てくる。
恐らく龍安寺の話だと思うのだが、石庭に関して初見では何も感じなかったものの一回りして戻ってきたときに強い感動を覚えたらしく、
その行って帰ってで初めて分かる感動というのはぼくも場所は違えど京都実習で行った孤篷庵の庭で強く感じたものであり、
何かその感覚がとても日本的なものなんじゃないかと再発見することになったり、
その他「料亭に行くと皿をおく音がしない」とか本当にいろいろ見て覚えているので、日本の見られ方みたいなものが分かる機会に。
ちえさんの案内で行ったらしいハウス&アトリエ・ワンのことも覚えていて、
「リビングにおける都市との関係のとり方があらゆる方向性を持っていてよい」というお言葉。先生に報告せねば。


とまあ本当に楽しく貴重なひとときを頂戴する。いい思い出だ。


PALAZZO BARBARAN DA PORTO、中庭に対してのファサードその1。

その2。ロッジアがその背後の雑多を許す。

それら結節点としてのその3。

階段室の余剰。

窓の向こうのアーチ。

アーチにかぶさる光のアーチ。

ここでエスキスさせて頂きました。天井がすごかです。

VILLA FOSCARIの堂々すぎる川側のファサード。かっくいー。

手すりがはぎ取られてしまった階段。そうなるともう幾何学的。

これがロッジア内の腰掛け。超絶の低さ。

こんなふるまいをつくり出します。

内部、いきなり目に飛び込んでくる大広間。彩色も素晴らしい。

メインファサード。これだけの引きに対して非常に平面的なふるまいで応える。両端に開けられた大きな窓がしめてる。

VILLA BADOER。ロッジアをつくる列柱が壁にインテグレートされているのが空間的にはどうもよくない。

付属屋のようす。これがつくといかにも農業拠点という雰囲気が出る。

ロッジアのなか。天井は木です。

大広間。VILLA FOSCARIを体験してからの身体感覚ではどうも狭い。

VILLAの階段は常にストイック。

上階。この天高と窓の少なさでものすごく気分が悪くなってしまう。

背後のファサード。窓のリズムが興味深い。

VILLA PISANI、メインファサード側。道路に面した珍しいヴィッラ。

VILLA POIANA。抽象的なファサードによりかなりファンタジックな印象。セルリアーナ部分の円の開口による奥行きの操作がかなり変態的。

晩餐。リンが車で練習した歌をメルクリに捧げているシーン。